心に届く「学び」の文化―江戸時代のしつけから考える―(心的「學習」文化-從江戶時代的教養思考-)辻本雅史…2015.04.29更新

心に届く「学び」の文化―江戸時代のしつけから考える―…2015.04.29更新

辻本雅史/国立台湾大学日本語文学系

Summary

日本語で「しつけ」というのは、幼い子どもに生活上の習慣や社会で守るべき規範を身につけさせることである。もとよりそれは教育の一面である。日本では昔から「しつけ」が生活の中で、当たり前のこととして(自然な形で、あるいは無意識のうちに)になされてきた。それは生活のなかのある種の文化であったといってもよい。ところが近年、生活形態、家族のあり方と、生活の意識の変化の中で、子どもに対する伝統的な「しつけの文化」が崩壊してきていると言われる。しつけは家庭の役割と考えられ、「しつけ」の衰退が家庭の教育力の低下とともに、危機的状況を迎えたと言うのだ。しかし「しつけ」を家庭だけの役割と考えるだけでよいのだろうか。

ここではこうした問題を念頭に、江戸時代に見られた「しつけ文化」の諸相を紹介してみよう。本論は、日本の昔の「しつけ」を今によみがえらせたいという願望をこめてのものでは、決してない。いわば、今の子どもに対する「しつけ」や教育あり方を考えるための、一つの鏡としたい、ということである。

[キーワード]身体、しつけ、貝原益軒、習慣

 

心的「學習」文化-從江戶時代的教養思考-

 辻本雅史/國立台灣大學日文系

日文的「しつけ」意指教養(禮貌)。教養是日常生活及社會規範中,孩童所必須學習的,亦是教育的一個環節。自古以來,在日本的生活中,教養(禮貌)的培養是必須的,而且是日常生活中是自然而然養成的(自然的狀況或下意識),可謂是生活中的一種文化。然而,近年的生活型態、家庭組成、生活意識等諸多的變化當中,針對孩童的傳統「教養(禮貌)文化」,可說是每下愈況。我認為教養(禮貌)的養成是屬於家庭教育之一,隨著「教養(禮貌)」及家庭教育日漸衰微的同時,此狀況是一種危機,不過,「教養(禮貌)」的養成,僅只限於家庭裡嗎?本篇文章以上述的問題作為切入點,介紹江戶時代的諸多「教養(禮貌)之文化」,並且以元祿時代的儒學家ー貝原益軒及其著作『和俗童子訓』,以探討江戶時代的兒童教育。

由以上的問題點,本稿將介紹江戶時代的「教養(禮貌)文化」,但是本論絕非是重新提倡日本江戶時代的教養(禮貌)之養成,筆者僅以當時的教育情形為一借鏡,重新探討現今孩童的教養(禮貌)及其教育方式。

Kaibara_Ekiken

貝原益軒
(來源:Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9D%E5%8E%9F%E7%9B%8A%E8%BB%92#/media/File:Kaibara_Ekiken.jpg)

 

日本語で「しつけ」というのは、幼い子どもに生活上の習慣や社会で守るべき規範を身につけさせることである。もとよりそれは教育の一面である。日本では昔から「しつけ」が生活の中で、当たり前のこととして(自然な形で、あるいは無意識のうちに)になされてきた。それは生活のなかのある種の文化であったといってもよい。ところが近年、生活形態、家族のあり方と、生活の意識の変化の中で、子どもに対する伝統的な「しつけの文化」が崩壊してきていると言われる。しつけは家庭の役割と考えられ、「しつけ」の衰退が家庭の教育力の低下とともに、危機的状況を迎えたと言うのだ。しかし「しつけ」を家庭だけの役割と考えるだけでよいのだろうか。

ここではこうした問題を念頭に、江戸時代に見られた「しつけ文化」の諸相を紹介してみよう。本論は、日本の昔の「しつけ」を今によみがえらせたいという願望をこめてのものでは、決してない。いわば、今の子どもに対する「しつけ」や教育あり方を考えるための、一つの鏡としたい、ということである。

 

1:「しつけ」の原理

まずしつけを構成している原理を、元禄期前後の儒者貝原益軒(一六三〇~一七一四)の著作『和俗童子訓』を手掛かりにして考えてみよう。益軒といえば今では長生きするためのマニュアルのように見られている『養生訓』の著者として知られている程度である。

しかし、益軒の『和俗童子訓』は子どもの教育に関する体系的な初めての書であり、教育学では早くから注目されてきた。ちなみに、益軒の著作の多くは同時代に出版され、武士・庶民を問わずよく読まれた。それは彼の主張が、突出した独創性をもっていたからというのではなく、逆に人々が漠然と思っていることがらに、はっきりした理論と言葉を与えたからであり、それゆえに多くの人々がそれに共感して読んだからにほかならない。とすれば、益軒の書によって当時の人々の考え方を、いわば目に見えるかたちで取り出すことができるはずである。

『和俗童子訓』に益軒が込めたメッセージは、要するに以下のように、「予(あらかじめ)めする」という教えである。益軒は言う。

「予とは、かねてよりという意(こころ)。小児のいまだ悪にうつらざる先に、かねてはやくをしゆるを云。はやくをしえずして、あしき事にそ(染)みならいひて後は、おしえても、善にうつらず。いましめても悪をやめがたし」と。生まれた子どもが悪に移ってしまえば手遅れである、だからその前に教えなければならないという、一種の早期教育の主張である。また「人の善悪は生まれつきではなく、生まれた後の教育次第」であるとも言う。たとえばウグイスでさえ、生後間もない雛の時に、美しく鳴く「おとな」のウグイスの傍らに置けば、その鳴き声をまねて、美しく鳴くのだと言う。人も同じである。

「およそ小児は智なし、心もことばも万のふるまひも、皆かしづきしたがふ者を見ならひ聞ならひて、かれに似する」というように、まだ智のない幼児はいわば白紙のようなものである。だから、周りの者(とくに保育者)を見習いまねていく。真似を繰り返して、その結果、それが「心のあるじ(主)」となってしまえば、それは「性」、つまり生まれつきと変わらないから、以後に、何をいかに教えてもそれを変えることはできない。だから早く教えねばならない、と益軒は主張している。

益軒はここで、子どもの人間形成について重要なことを指摘している。それは、幼児が自分の目や耳によって「見習ひ聞き習」うことによって模倣する過程こそ、人間形成の決定的要因であるという考え方である。たとえば「少成は天性の如く、習慣は自然の如し」(『孔子家語』)の孔子の言も、幼少時に身についた習慣は、自覚なしに自然になすものである。それは「天性」と変わらないと解する。生まれつきよりも、生後の子どもの模倣による「習い」こそ、人間をつくるより大きな要因となっている、と益軒は言うのである。「予めする」教育とは、こうした主張であった。

では「予め」教えるとは、何をどのように教えよ、というのか。要するに子どもは、もともと我がままなものである、その我がままを正しい規範によって抑えよ、と益軒はいうのである。彼は「教え」という言葉を次のように定義する。「おしえは、おさえ也。人の悪をおさへてよき事をしらしむる也」(『日本釈名』)と。要するに「教」とは、何ごとかを積極的に教え込むことではない。(ちなみに、現代の学校教育は、新たなことを積極的に教え込む教え方であるが、そうではない)。よくない事をしたときにそれを抑え叱り、それによって何が良い事であるのか、経験的に分からせるということ、これが「教える」ことの意味である。この主張の前提には、子どもはもともと、目や耳など自ら感じる感覚器官(五官)と身体によって、自力で周りを模倣し学んでいる、という認識がある。その前提のもとで、子どもがあるべき規範をはみ出した時に戒める、それが「教える」ということだというのである。ちなみに「学ぶ」については、「『ま』は誠也、『なぶ』はならふ也。まことをならふ也」と定義する。それは、手習(習字)の時に「手本」をモデルにして、その通りまねて習うのと同じように、正しい本物を習うことが「学ぶ」の意味だと言っている。この「学ぶ」という言葉の定義が、先の「教え」を定義した捉え方に対応していることはいうまでもない。

ここで注目すべきことは、子ども自身が自力でする身体的な模倣活動である。それは言葉によって、言語化された意識の回路を通して「教え込む」という方法ではない。なすべき事をあらかじめ言葉で教えるのではなく、子どもに自由にやらせておいて、一定の規範から逸脱したときにそれを戒め、それで子どもに実感的・身体経験的に分からせる実践的な方法である。あるいは言語化された意識を回路としない、身体を通した教え方といってもよいだろう。これが日本の「しつけ」の方法であり、いわば「しつけの原理」であったということになる。

民俗学の創始者・柳田国男(一八七五~一九六二)は次のように言う。「今ある学校の教育とは反対に、あたりまへのことは少しも教へずに、あたりまへで無いことを言ひ又は行ったときに、誡め又はさとすのが、シツケの法則だったのである。小さな頃から我々は自分の眼耳又は力を以て、この当然なるものを学ばなければならなかった」。さらには、「日本の伝統には、文字は勿論口言葉にも表はれないで、黙々と伝はって居るものがあった」(いずれも「教育の原始性」)。柳田のこの言葉は、益軒のいうことと、原理的に正しく照応していることは容易に理解されよう。私の言葉でいえば、身体を通した経験的な学びということになる。

 

2:子育ての共同性

幼児が見て習う最大の環境は、何であるのか。それはもちろん、直接の保育者である。実際には、多くは両親とりわけ母親であり、また家族もしくは家庭である。この点でしつけの第一責任は、親と家族・家庭にあるということになる。親と家庭のあり方が子どものしつけや人間形成の、まさに第一の規定要件である。もちろん益軒も、その重要性を説いてやまない。

いましつけ教育の崩壊が声高に指摘され、それをもたらした主因を、家庭の教育力の低下に求める意見が大勢であるようにみえる。この前提には、しつけは家庭で行うもの、とする強固な認識が通底してある。もちろんしつけにおける家庭の、ことに親の役割の大きさを否定するつもりはない。しかし日本の社会では、しつけの責任が個別の家庭(家)に(だけ)あるという考え方は、実はもともとなかったし、実際しつけが家庭・家だけで行われたという時代も事実もなかった、ということに注意すべきである。

近代化以前の日本の子育ては、親だけが単独で子どもに向き合うものではなかった。親よりも、家を取り巻く生活上の共同体の存在が大きかった。村や町は、個別の自立した家の単なる集合体ではなく、相互依存してこそ成り立つ、生活と生産の上で必須の共同体であった。今でいえば現象的には、町内会や住民自治会に近いようだが、村や町の共同体は、それらよりもはるかに強力に生産と生活に密着していた。各家は村や町の共同体とつながって、その網の目にしっかりと縛られるとともに、強く守られてもいた。そのつながりを絶ってしまえば、村で生きていくことは不可能となる。共同体の一員として、生活が守られ、精神上でも安定できるものであった。身心ともに強いつながりによって人々は生きることができたのである。この関係は、実に子育てに関しても同じである。子育てという仕事は、各家だけでなく、その地域共同体全体の仕事であった。子育ては、町村共同体が持続していく村の再生産の重要な機能を担っていたのであるのだから。柳田はこれを、「群」の教育という。

たとえば子どもの出生に当たっては、産みの親以外にも、「取り上げ親」とか「乳付け親」「名付け親」「拾い親」などのさまざまな「仮親」が存在した。多くの仮親は、産まれてきた子どもとの間に、それぞれ擬制的な親子の関係を取り結んだ。この仮親たちは、その子の成長過程に「親」として関わってくる。それは子育てのためのおとなのネットワークと言ってもよい存在である。子どもの誕生とその後の成長の節目毎の祝いには、近所・仮親や親戚の人たちが集って酒食を共にする「共食」がなされた。それも子どもの成長を支えるおとなのネットワーク集団にほかならない。また姉や近所の年長の女児が、それぞれの幼児の「子守」として、保育に当たった。その関係は、子守の女児「モリ」と「モリッコ」(子守りをされた子)とは、子守の時期を過ぎてもなお特別な関係を維持し、身近な人生の先輩として、諸々の相談事にあずかることが多かった。

七歳を過ぎると子どもたちは「子ども組」という一定の年齢(ほぼ一五歳以下)で区切られた集団に入り、多くの時をそこで過ごした。遊びや村の行事などに参加しながら、年少者は年長者からさまざまなことを習い学んで、村の子どもらしく育っていった。おおむね一五歳を過ぎると一人前の扱いをうけ、例外なく「若者組」集団に属し、結婚までの時の多くをそこで過ごした。若者組は寝宿(村の若者たちの合宿所に相当する施設)での共同生活を基本にし、その生活を通して一人前の村人に育てられ、実際に育っていった。若者組に入れば、婚姻も含め、たいていのことが親より若者組の意向の方が優位にあった。要するに親や家より、子どもや青年の地域の自治集団の方が、子どもの人間形成にずっと深く大きな意味を持っていたのである。

このようにみてくれば、日本の近代以前では、しつけや教育は、親よりも社会全体の事業という側面が強かったことに気づかれよう。とすれば、近年のしつけ教育の崩壊は、家庭の教育力の低下が直接的要因に見えようとも、古くから家を支え子どもを支えてきた地域社会や広い共同社会の力そのものが崩壊してきた結果であると考えるべきだろう。単独で子どもに向き合えるほど、親や家庭は自律的でもなく、強くもないのだ。少なくとも日本では、キリスト教やイスラム教の社会のような、人々の生と社会を強固に支える価値を共有していたわけではなかった。

 

3:身体から心へ

先に益軒を素材に、しつけの方法上の原理が、言語化された意識の回路を通さない、身体を通して教える方法であることを指摘した。身体の規律化によって人間形成に向かう方法と言ってもよい。とすれば、それは身体を回路として正しい心のあり方を導く方法にほかならない。それをここでは「身体から心へ」の教育方法とよんでおきたい。

身体実践における規範的規律のことを、儒者益軒は「礼」と表現する。儒者益軒は、儒教の言う礼を、日本社会における生活上の身体技法の意味において、理解していた。(辻本雅史『思想と教育のメディア史』ぺりかん社、2011年)。礼による人間形成論は、(礼は一種の身体技法であるから)、「身体から心へ」向かう方法である。日本の伝統的な教育法はいずれもこの方法をとる。伝統芸能、たとえば能楽や踊りの稽古では、師匠はひたすら身体で表現される「型」の模倣を求めてくる。茶道は挙措の一挙手一投足にいたるまで決まり事(型、礼)で塗り込められている。いずれも身体行為の規律化を求めているが、それは身体の「型はめ」を目的としているというよりも、一定の心の境位に達する方法や回路ととらえられている。侘び茶は、茶を飲むこと以上に、禅に基礎づけられた深い精神の実現を目指している。大相撲で重視される「心技体」も、稽古を通じた心の鍛錬の言説といってよい。

職人の「わざ」の伝承も、師匠が示すわざを、弟子が自己の五官と身体を通じて模倣し習熟していく稽古に他ならない。手習塾(寺子屋)での子どもの手習も、師匠が書いた「手本」を子どもが自らの手で模倣し習熟していく方法である。儒学の基礎学習として重視される「素読」も、ひたすら経書を音読して暗誦すること。それは経書というテキストを丸ごと身体のうちに取り込んでいく、という意味で、いわば「テキストの身体化」に他ならない。日本のしつけが「身体から心へ」向かう教育の方法であると捉えれば、それは日本の文化のなかにあまねく見出せる方法と、原理的に通底していよう。それを、日本の社会がはぐくみ保持してきた「学習文化」と呼ぶことができる。そう私は思っている。

この学習文化は、身体を通して「心に届く学び」を目指している。いま「心の教育」が求められているが、子どもの心に言葉で直接語りかけるような道徳教育は虚しい。学校教育における教科としての「道徳教育」は、方法論上、きわめて困難であるだろう。あえていえば、子どもの心に届くことはないだろう。日本のしつけや学習文化の方法を上のように見てくれば、現代の学校は、教育における身体性の契機を見落としているように思われてならない。心に届く学びをどのように再構築していくかが問われている。歴史と文化の視点は、この問いを考える上に有効な手がかりとなるにちがいない。(了)

※本稿は、くもん子ども研究所編『浮世絵に見る江戸の子どもたち』(2000年10月,小学館)に収録の、第3章辻本雅史「心に届く「学び」の文化ー江戸時代のしつけから」の文章に加筆修正したものである。

 

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